【鬼滅の刃】無限列車編の猗窩座について

公開から2ヶ月以上経ってしまいましたが、『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』を観てきました。この年末年始で映画館に行くのはココとワールドトリガーに続いて3回目で、ポケモン映画以外で映画館に行くことがほとんど無い私にとっては珍しい年末年始となりました。
そもそも私はジャンプ作品を原作とした映画でもNARUTO以外は自分から見に行くことは全くなかったのですが、今回の劇場版鬼滅の刃は原作通りの展開かつアニメ版の続きということ、そして私が鬼滅の刃で最も好きなキャラクターである猗窩座が登場するということで劇場で見ることにしたのでした。

f:id:asumiyareia:20210107012303j:plain

この猗窩座に関して、今回の映画での登場シーンの原作版に加えてその先で再登場したシーンを受けて私は「鬼滅の刃で猗窩座が1番好き」と言い始めたのですが、その理由は何故なのか自分自身も言語化できていませんでした。(明日宮の推しキャラには自身で推す理由が説明できないという理由なき推しキャラが多数いるのが事実です) しかし今回の無限列車編を見て、猗窩座の好きな所に1つ気が付いたのでここに書き記しておきます。

以降は映画の内容のネタバレを含みます。
また、映画で描かれたストーリー以降の原作の展開には具体的には触れないようにしています。


猗窩座は戦闘と強さに執着する鬼です。こういうバトルマニア系の敵キャラは割と多くの作品に登場します。
しかしこの手の敵キャラにありがちな展開として、バトルマニアぶりが高じて相手とできる限り近い条件に下がった戦いをしたり相手にチャンスを与えてしまったりとどめを刺さないようにしたりしてしまった結果敗れてしまうというものがあります。そういう展開になってしまうキャラクターも嫌いではないどころかむしろ好きではあるのですが、時々「ちゃんと自分の土俵で戦っていればこんな負け方をしなくて済んだのに」と見ていて悲しい気持ちになることもあります。
しかし猗窩座は、炎柱・煉獄杏寿郎の強さを認めて戦闘する中で、鬼としての再生能力を惜しみなく使い、生身の人間である杏寿郎に対してみるみると優位に立っていきます。猗窩座としては「鬼になればできること」を杏寿郎に間近で見せ、鬼への勧誘を強めたいという気持ちもあったのでしょう。
最終的に猗窩座は杏寿郎を‘このままだと死んでしまうが鬼になれば助かる’という状況まで追い込みますが、それでも杏寿郎の鬼殺隊としての意思は固く、結果として煉獄さんは命を落とすことになります。この辺の猗窩座の、老いて醜くなるくらいなら強い状態のまま死ぬべきという考えも猗窩座らしくて良いなと感じますね。

そして日の出の時間となったシーン、鬼は太陽の光に当たると砕け散ってしまうので、猗窩座は一目散に逃げ去っていきます。この武士道精神とは正反対の撤退を炭治郎には卑怯者と言われてしまいますが、自分が優位に立てる状況でしか戦わないことは強者が強者であり続けるためには重要なことであり、精神論を超えた合理性を感じさせる、私としては支持したい行動だと思いました。あと単純に、主人公サイドにちゃんと勝って去る敵キャラが私はとても好きなのですよね。

このように、猗窩座のバトルマニアだけど自分の優位点を出し惜しみせず、なおかつ勝って生き残るという結果に執着した点が、私が猗窩座を好きと感じる理由なのかなと、無限列車編を見て思いました。


あと、猗窩座のイントネーションは今まで‘あかざ↑’だと思っていたのですが、‘あ↑かざ’なのですね。猗窩座が名乗ったシーンでは驚きました。
ちなみに私は善逸は‘ぜ↑んいつ’、伊之助は‘いの↑すけ’だと思っていたのですが、‘ぜんい↑つ’‘いのすけ↑’だとアニメを見て知りました。

以上です。鬼滅の刃ではこの後に出てくる他の上弦の鬼も結構好きなので、この先の展開もアニメ化されるのが楽しみです。