劇場版ポケットモンスター ココ 感想 ※ネタバレ注意

2020年12月25日、延期を経てついに今年のポケモン映画「劇場版ポケットモンスター ココ」が公開されました。

私は公開翌日の12月26日土曜日に見に行きました。

ネタバレに配慮すると感想は「最高でした!」としか言えないので、この記事にネタバレ満載の感想を書き記したいと思います。

 

 

 

↓ここからネタバレたっぷりなので閲覧される際はご注意くださいませ。

また、この記事を書くにあたって細かく情報を精査しているわけではないので、特に過去作の話などに間違えがあるかもしれないことをあらかじめご了承ください。

 

 

 

 

 

 

テレビ電話と恒例の嘘予告

予告編でジャングルに向かうサトシに対してハナコママが電話で心配する姿が何度も流れたのですが、サトシがジャングルに行くこと自体を心配するなんて今更すぎないか?というツッコミをネット上でよく見かけました。そこのところは私も違和感を感じていたのですが、実際の本編ではハナコママが心配するシーンはありましたが、心配の内容はジャングルに行くことそのものではなく持ち物や準備に関することであり、これがサトシとハナコママの関係だよなと感じられる描写になっていて安心しました。

 

人語とポケモン語 通訳ピカチュウ

序盤からココを含めたザルードたちが会話するシーンが描かれていました。ポケモンが日本語を話している姿は劇場版ではよくある光景なので特に違和感を感じていませんでしたが、よく考えるとテレパシーが使えそうなポケモンではないザルードが人間の言葉で会話しているのには違和感を感じるかもしれません。(私は視聴中にはそこまでの思考には至らず、違和感ゼロで受け取っていました)
しかしココがサトシと邂逅したシーンで、まるで叙述トリックに引っかかっていたかのような気持ちになりました。
サトシに対面して日本語を話さず「ザ」「ル」「ド」のみの音の組み合わせで言葉を発するココ。
つまり、ココやザルードは決して人間の言葉を話せるわけではなく、あくまで演出として会話に日本語が当てられていたのだということですね。

そしてここでらしい活躍を見せたのがサトシとピカチュウのコンビです。
まずサトシは人間の言葉を話せないココにあまり疑問を持たず、嘘予告では「人間?ポケモン?」と驚いていたシーンもありましたがそれもなく、ただ「面白いやつだな!」とすんなり新しい友達として受け入れる姿がらしさの塊で印象的でした。
そしてピカチュウポケモンの言葉を話すココと会話することができます。さらにサトシとは共通の言葉がなくとも意思疎通が出来る関係にあるので、

サトシ⇔ピカチュウ⇔ココ

というピカチュウを通訳とした自己紹介が繰り広げられていたことが印象的でしたね。

ちなみにサトシがココを追いかける下り坂のシーンで「いつもの親子」が結構長めに映っていましたね。

 

リーダー・ザルード

この映画で1番の推しキャラを挙げるなら、掟を破ったとうちゃんザルードと対立したリーダー・ザルードですね。とりあえず津田健次郎さんボイスがとてもかっこいいです。
リーダーとして掟に従って自分たちの群れを守ろうとする姿、かつての相棒であるとうちゃんザルードと再び共闘するシーン、そして掟の歌の新しい解釈を知って他のポケモンたちと手を取り合うことができるようになったシーン、それぞれかなり魅力的でした。
 

ビオトープ・カンパニーとゼッド博士とサトシ

ゼッド博士やカレンらビオトープ・カンパニーの面々がオコヤの森にロボット型の重機で攻め入ったシーンを見て、私は最初は「自然を対象としている研究機関が何故そんな荒々しいことをしてるのか」と心の中で突っ込んだのですが、よく考えるとゼッド博士に重機の主導権を奪われるまでは重機がそれ自身の通れる幅の木々のみ綺麗に伐採するに留まっていて必要最低限な森林破壊に抑えていたためにカレンたちもその伐採には目をつぶっていたのだと私は思いました。ラストシーンではその重機が森の復旧に用いられていたため、本来は環境保全のための重機であることもわかります。また、森で好き放題するゼッド博士の姿を見ながら1つの予想を立てたのですが、それは後述します。
また、重機の制御装置の破壊に成功してゼッド博士に詰め寄るシーンのサトシが「博士!‪もう終わりです!」と敬語を使っていたことがなんとなく印象的でした。過去にアニポケではXY&Zでフラダリが敵とわかると呼び捨て&タメ口になったシーンが記憶にありましたからね。
 

風穴

今作で特に衝撃だったシーンは、ゼッド博士の重機の攻撃からココを庇って土手っ腹に風穴が空いてしまったとうちゃんザルードのシーンでした。少年漫画ではこのように家族や仲間を身を呈して守るシーンは王道であり、ポケモンでもサトシやラティオスボルケニオンなどのように身を呈して仲間を守って倒れたシーンはあるのですが、ポケモンで致命傷になった傷が具体的な描写込みで描かれるのは珍しく、衝撃的に感じました。その具体性があったからこそ、ココのジャングルヒールによるとうちゃんザルードの復活に傷の治癒という具体的な理由が描写され、感動の展開に納得性が付加されて良かったと思いました。
 

エンディング

今回のエンディングアニメーションはホシガリスやウッウたちが踊るアニメーションで可愛らしかったですね。近年のポケモン映画のエンディングアニメーションは静止画の1枚絵が多めだったので新鮮でした。
そういえばホシガリスはかなり出番があったにも関わらずその名前を1度も呼ばれなかったですよね。ココには「お前」などとしか言われてなかったですし。
 

とうちゃんザルードの出自

とうちゃんザルードもココと同じで両親の存在を知りませんでしたが、その出自の謎、そして何故特別なザルードだけが使えるジャングルヒールをとうちゃんザルードが連れてきたのかについては最後まで明かされませんでした。
しかし他にも明かされなかった伏線として、平和な森にしか棲みつかないセレビィが姿を消した森の奥深くにはセレビィが未来から持ってきた卵が残されているというミリーファタウンに伝わる言い伝え、そしてセレビィが森で見られなくなった時期ととうちゃんザルードが群れにやってきた時期が重なるという長老ザルードの話があり、これらからとうちゃんザルードはセレビィが未来から持ってきたタマゴから孵ったザルードであると考察できます。

 

セレビィにとっての森の平和

しかしここで私が疑問に思ったことは、
セレビィが見られなくなった=森が平和ではなくなった
という判定をセレビィは何を根拠にしたのかということです。

その候補を挙げると、1つはザルードの群れが神木を支配していたことです。他種のポケモン達を虐げて森の恵みを独占している生態は平和という言葉からは程遠い光景でした。しかしこれはザルードの群れが昔から代々掟に従って行っていることで、とうちゃんザルードの加入時期から急にセレビィが見られなくなったことと辻褄が上手く合いません。セレビィが未来から持ってきたタマゴから孵るとうちゃんザルードに平和を託して去っていったと仮定しても、このタイミングである必要性が薄いです。

2つ目の候補はビオトープ・カンパニーという人間の勢力が治癒の泉を研究していたことです。確かに残された自然に人間の開発・利用が介入すれば今までの平和は奪われます。しかし10年前時点ではザルードたちのために研究を凍結したモリブデン夫妻(クロム・リン)によりしばらくの平和が訪れていました。その上この映画で描かれたゼッド博士による森の破壊は、ゼッド博士がココのアクセサリーから治癒の泉のデータを回収できていなければ決行できなかったはずで、それの元を正せばココが生きていたこと、そしてココを助けたとうちゃんザルードがこの時代に生まれたことに繋がり、セレビィがとうちゃんザルードに平和を託したという仮定と真逆の展開を産んでしまっています。

これらのことから私の結論としては、セレビィがとうちゃんザルードに平和を託して森から去った理由は、候補1と候補2の両方が重なり合ったことにあり、人間の森への進出をきっかけにザルードが他種と共存する平和な未来を得られるとセレビィが考えたからなのだと思います。結構な荒療治ではありますが、運命の定めと巡り合わせはそう簡単なものにはなりませんよね。

 

森を独占 ポケモン対人間ではなく

公開前の私は「掟に逆らってココを育てたザルード」という予告を見て、「掟とは人間を拒む内容なのだろう」と予想していました。何故なら、ポケモン映画やアニポケでは人間を拒むポケモンという描写がなされることがよくあるからです。特に比較的最近の作品である『ボルケニオンと機巧のマギアナ』と『みんなの物語』はどちらも勝手な人間に傷つけられて人間を拒むようになったポケモンが人間の善い側面を知るという展開なのですが、今作の『ココ』はそれらのポケモン対人間の構図とは大きく異なっていました。ザルードの掟で拒まれる存在は人間だけでなくザルード以外のポケモンを含めた全ての他種であり、むしろ人間側が他種と共存できる存在としてココの目を通じて描写されていました

しかしここで、治癒の泉さらにはその源の神木の力を手に入れようと攻め込んできたゼッド博士という人間が現れます。それを見て私は「確かにゼッド博士の侵攻は自分勝手だが、現状でも治癒の泉はザルードの独占状態にあるため、独占主が変わるだけなのでは?」と考えていました。すると終盤でリーダー・ザルード(長老ザルードだったかも?)がまさに私が考えたことと同じ趣旨の発言をして、自分たちの行いそして森の掟の解釈を改めたシーンがあり、その時は自分の考察を自画自賛しました。

そして前述したセレビィにとっての平和を目指すためのキーポイントがまさにここで、ザルードの群れという独占主にゼッド博士という別の独占欲をぶつけることで、ザルードたちの考えを改めさせることにあったのでしょう。この衝突を呼び込んだキーマンはザルードとして育てられた人間であるココでした。前述したように治癒の泉のデータをゼッド博士側に渡す媒体となっただけでなく、ザルードの1匹としてポケモンと共存する人間の姿を目撃してそれを伝える存在となったのでした。そしてまた、キーマンのココを生き残らせるための存在がとうちゃんザルードで、彼がこの時代に生まれた理由に繋がります。これらの結果としてザルードたちは掟の解釈を改めて他のポケモンと共存していく道を選び、オコヤの森に平和が訪れ、セレビィが再び見られるようになったのでした。

 

近年のポケモン映画における伝説・幻のポケモンの立ち位置

以上、私は劇場版ポケットモンスター ココを「全てはセレビィの手の上だった」的な考察をしてしまいました。しかしスクリーン上ではセレビィ自身の出番は最終盤のみで、一見するとおまけのような存在にも見えました。

しかし、『キミにきめた!』からの『みんなの物語』という近年のポケモン映画の流れを考えるとそのようなセレビィの登場の仕方も納得出来るものなのです。

キミにきめた!のホウオウとみんなの物語のルギアは、それぞれ映画の中で偉大な存在として描かれていますが話に直接関わるのはラストだけで、威厳たっぷりの登場になっていますよね。#ミュウツーの逆襲前夜祭 #アニポケ #anipoke #みんなの物語

— 明日宮黎亜 (@asumiyareia) 2019年7月11日

 このツイートに書いてある通り、ホウオウしかりルギアしかりセレビィしかり、それぞれは話の中で伝承的存在であり話の中で大きな意味を持つものの、実際の登場は最終盤だけという共通点があります。これが近年のポケモン映画の過去からいる伝説・幻のポケモンの在り方なのではないかと私は考えています。特に今作は、ここまで考察しないとセレビィが話にもたらした影響が感じにくく、その描き方が強まっていたと感じました。そう考えると今後はジラーチデオキシスがバックで大きな意味を持つ存在となる映画があるのかもしれないと期待してしまいますね。

 

+岡崎体育

そして今作は「掟の歌」「ココ」「Show Window」「森のハミング」「ふしぎなふしぎな生きもの」「ただいまとおかえり」という岡崎体育さんによって作られた6つのテーマソングに彩られていたいた事がとても素晴らしい演出となっていました。

私も迷わずテーマソング集を買いました。どの曲も好きですが、1つ挙げるなら特に「ココ」の爽やかな疾走感が好きですね。

ボーナストラックにはサン&ムーンで岡崎体育さんが手がけた主題歌「ポーズ」「ジャリボーイ・ジャリガール」「キミの冒険」「心のノート」も収録されています。

 
 

以上、劇場版ポケットモンスター ココの感想を書きなぐりました。

あんまりまとまっていないメモではあるのですが、気が付いたら6000字を超えていて、5年前の大学2年生時代のような規模の考察・感想記事を久々に書くことができたなという気持ちになりました。例年だと「夏はポケモン!」なので映画を見た直後も試験やリアルのポケモンイベントに必死で考察記事を書く余裕が無かったのですが、今年は「冬もポケモン!」かつ「Stay Home」なので丸1日かけてじっくり考察する余裕を持てたのかなと思います。

それにしてもメインテーマであろう「親子」についてはほとんど書かない(普通に素直に感動したので)記事になったのは私らしいなと自分で思います。

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劇場版ポケットモンスター ココ パンフレット

ちなみにこの記事を書くにあたって、映画館で購入したパンフレットを大いに参考にしました。映画の内容がクライマックス手前まで結構がっつり書いてあるので、映画を見たあとに振り返るのに便利です。また、スタッフロールが乗っているので、スクリーンではスタッフロールを見ずにエンディングアニメーションに集中できます。

 

 個人的に考察しきれていないことメモ(2020年12月27日現在)

・とうちゃんザルードそしてココがジャングルヒールを使うことができた理由・条件とは?

・ココの本名はアル・モリブデンで父の名前はクロムで母の名前はリン。元素周期表ではクロムとモリブデンは第6族。アルはAlかAr?リンも含めて名前の関連性が気になるところ。